2012年5月13日日曜日

臺南縣南安國民小學(直加弄公學校港口分校か分教室?・安定公學校海寮分教室・安定公學校海寮分教場・南安公學校・)

現在地:臺南縣安定郷南安村(2010年2月6日撮影)

前身については、未調査。

一説では直加弄公學校港口分校と安定公學校海寮分教室が合併して南安公學校となったとされているが、大正9年の地方制度改正で「直加弄」は「安定」と地名変更されている。

それに伴い、民国10年(1921年)大正10年4月24日臺南州報號外(大正10年4月25日告示第34號)により、「直加弄公學校」は「安定公學校」と校名変更している。現在地にある「南安國民小學」には二宮金次郎像の台座、楠木正成の台座、校内神社か奉安殿と思われる基礎土台部分があり、日本時代のものと思われる。ただ移築したのかどうかは分からないが、校内神社か奉安殿の跡については移動はないものと思われることから、海寮と港口の中間に位置する現在地が南安公學校の跡地であるといよう。

直加弄公學校港口分校(分離教室)
民国9年(1920年)大正9年
(公報未確認)

臺南州になってから港口分校(分離教室・分教場)に関する告示がないため、法令上の処理から見ると、海寮分離教室(分教室)の告示が南安國民小學の前身にあたる。また大正9年間の府報によっても港口の分校、分教室などの告示がないため、この場合は告示に拠らない「分教室」として先に海寮、港口に教室が設けられていたか、はじめは海寮に分教室がなく、海寮からも設置の声が上がり、港口と海寮の中間地の現在地に告示による分離教室が設けられたものと考えられる。その後分校に昇格、公學校への独立昇格となったものと考えられる。

いずれにしても、時期的なことから考えると、港口か海寮のどちらか先か同時か、一方だけかは今後の研究によるが、告示に拠らない分教室が設置されたところが南安國民小學の前身になる。

安定公學校海寮分離教室
民国10年(1921年)大正10年4月24日
臺南州報號外 大正10年4月25日 告示第34號

安定公學校海寮分教場
民国12年(1923年)大正12年4月1日
臺南州報第245號 大正12年6月1日 告示第67號

南安公學校
民国15年(1926年)大正15年
(公報未確認)

南安國民學校 
民国30年(1941年) 昭和16年4月1日
臺南州報第2121號昭和16年4月1日告示第370號


校内にある二宮金次郎の像。そのまま残されていた。

台座は楠木正成と思われる。


校門を入って左手にあった校内神社か奉安殿の跡と思われる。基礎部分の手前の木はかつては燈籠か鳥居の支柱であっと思われる。

港口にある「慈安宮」と活動センターと市場
(2012年5月13日撮影)
分校や分離教室の最初は寺廟などに設置することが多く、活動センターや市場もあることから、このあたりに当初設置されたのではと推測する。


海寮にある「普陀寺」と活動センター
(2012年5月13日撮影)
分校や分離教室の最初は寺廟などに設置することが多く、活動センターもあることから、このあたりに当初設置されたのではと推測する。

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