2013年8月12日月曜日

臺東縣達仁郷安朔國民小學新化分校(チョカクライ蕃童教育所・チョカクライ教育所)

現在地:臺東縣達仁郷新化村(2013年7月22日撮影)

チョカクライ蕃童教育所
民国7年(1918年)大正7年4月18日
(公報未確認)
臺東縣政府編(2001)『臺東縣史文敎編』による


大蟒鴨(タバカス)蕃童教育所
民国元年(1912年)大正元年8月1日
(公報未確認)
臺東縣政府編(2001)『臺東縣史文敎編』によると、
民国前2年(1900年)明治43年創校
(公報未確認)
臺東縣政府編(2001)『臺東縣史文敎編』によると、
昭和17年にチョカクライ教育所に編入されたとのこと。

臺東縣達仁郷安朔國民小學森永分校<廃校>(タリリク蕃童教育所・大谷教育所)

 現在地:臺東縣達仁郷森永村(2013年8月4日撮影)

タリリク蕃童教育所
民国元年(1912年)大正元年12月1日
(公報未確認)

大谷教育所
(公報未確認)

臺東縣政府編(2001)『臺東縣史文敎編』によれば、元々は金峰郷との郷界付近に住んでいて3部落を1955年に強制移住させて現在地に来させたとのこと。


臺東縣臺東市豊里國民小學(臺東寶公学校橘分教場・臺東寶國民学校橘分教場・臺東橘國民学校)

現在地:臺東縣臺東市豊里(2013年7月22日撮影)
 

前進は 旭尋常小學校
民国13年(1924年)大正13年4月1日
(公報未確認)
臺東縣政府(2001)『臺東縣史文敎編』による

旭國民学校
民国30年(1941年)昭和16年4月1日
臺東廳報第773號 昭和16年4月1日告示第48號
課程第一號表ヲ採用スルモノ

旭尋常小學校内に教室を借り受け開設
臺東寶公学校橘分教場
民国29年(1940年)昭和15年4月1日
(公報未確認)
臺東縣政府(2001)『臺東縣史文敎編』による

公報での告示が確認できていないが、
臺東寶公學校は
民国30年(1941年)昭和16年4月1日
臺東廳報第773號 昭和16年4月1日告示第48號
課程第ニ號表ヲ採用スルモノ
にて國民学校へ移行している。そこには分校記載がない。

臺東寶國民学校橘分教場
(公報未確認)
<昭和19年1月1日発行の『職員録』には分校記載がある>

臺東橘國民学校
民国34年(1945年)昭和20年4月1日
(公報未確認)
臺東縣政府(2001)『臺東縣史文敎編』による

2013年7月29日月曜日

臺東縣達仁郷安朔國民小學(アロヱ教育所)

現在地:臺東縣 達仁郷安朔(2013年7月22日撮影)

アロヱ教育所
民国21年(1932年) 昭和7年4月1日
(公報未確認)

臺東縣東河郷都蘭國民小學(都鑾蕃人公學校・都鑾公學校・都鑾蕃人公學校・都蘭公學校・都蘭國民學校)

現在地:臺東縣東河郷都蘭(2013年7月23日撮影)

都鑾蕃人公學校
民国前4年(1908年)明治41年10月
(公報未確認)

都鑾公學校
民国前1年(1911年)明治44年3月31日
府報第3199號 明治44年3月31日告示第51號

都鑾蕃人公學校
民国6年(1917年)大正6年4月1日府報第1253號
大正6年3月28日告示第37號

都蘭公學校
民國11年(1922年)大正11年4月1日
府報第2667號 大正11年5月28日告示第92號

都蘭國民學校
民国30年(1941年)昭和16年4月1日
臺東廳報第773號 昭和16年4月1日告示第48號

2013年2月17日日曜日

臺東縣延平郷紅葉國民小學(紅葉谷蕃童教育所・紅葉谷教育所)

現在地:臺東縣延平郷紅葉村紅谷路1號(2013年1月21日撮影)

2013年1月23日水曜日

臺東縣卑南郷利嘉國民小學(呂家公校・呂家公・呂家国民学校)

現在地:臺東縣卑南郷利嘉村666號(2013年1月20日)

呂家公學校
民国前7年(1905年) 明治38年4月6日
(公報未確認) 

呂家
民国前1年(1911年) 明治44年3月31日
府報第3199號 明治44年3月31日告示第51號

呂家蕃人公學校
民国6年(1917年)大正6年4月1日
 府報第1253號 大正6年3月28日告示第37號

呂家公學校
民国11年(1922年)大正11年4月1日
 府報第2667號 大正11年5月28日告示第92號

利家國民學校
民国30年(1941年) 昭和16年4月1日
 臺東廳報第773號 昭和16年4月1日告示第48號

臺東縣卑南郷大南國民小學(大南蕃童教育所)

現在地:臺東縣卑南郷東興村東園一街40號(2013年1月20日撮影)

大南蕃童教育所
民国9年(1920年)大正9年4月
(自校史による)
<公報未確認>

公報未確認だが、昭和17年版の『高砂族の教育』にある教育所リストでは大南蕃童教育所は民国5年(1916年)大正5年11月 17日となっている。 自校史では民国34年1月利家國民學校大南分校に合併となっている。 しかし、昭和19年版の台湾総督府『職員録』には他の分教場記載はあるが、利家國民学校の分校記載はない。(2013年1月23日)

2012年12月4日火曜日

屏東縣三地國民小學德文分校(德文乙種蕃童教育所・德文公學校)

現在地:屏東縣三地門郷徳文社(2012年12月2日撮影)

德文乙種蕃童教育所
民国3年(1914年)大正3年 3月
(公報未確認)
『重修 屏東縣志 巻5 文教志 全一冊』より

德文公學校
民国12年(1923年)大正12年5月7日
府報 第2956號 大正12年6月1日告示第105號

德文國民學校
民国30年(1941年)昭和16年4月1日
高雄州報第1600號 昭和16年4月1日告示第267號

初代校長顕彰の碑「矢野先生之碑」
 
背面

遠景
 

2012年7月27日金曜日

臺東縣鹿野郷瑞豊國民小學

現在地:臺東縣鹿野郷瑞豊(2012年7月19日撮影)

臺東縣關山鎭電光國民小學

現在地:臺東縣關山鎭電光(2012年7月19日撮影)

臺東縣池上郷萬安國民小學

 現在地:臺東縣池上郷萬安(2012年7月19日撮影)

臺東縣長濱郷寧埔國民小學

現在地:臺東縣長濱郷寧埔(2012年7月19日撮影)

臺東縣長濱郷樟原國民小學

現在地:臺東縣長濱郷樟原(2012年7月19日撮影)

2012年5月13日日曜日

臺南縣南安國民小學(直加弄公學校港口分校か分教室?・安定公學校海寮分教室・安定公學校海寮分教場・南安公學校・)

現在地:臺南縣安定郷南安村(2010年2月6日撮影)

前身については、未調査。

一説では直加弄公學校港口分校と安定公學校海寮分教室が合併して南安公學校となったとされているが、大正9年の地方制度改正で「直加弄」は「安定」と地名変更されている。

それに伴い、民国10年(1921年)大正10年4月24日臺南州報號外(大正10年4月25日告示第34號)により、「直加弄公學校」は「安定公學校」と校名変更している。現在地にある「南安國民小學」には二宮金次郎像の台座、楠木正成の台座、校内神社か奉安殿と思われる基礎土台部分があり、日本時代のものと思われる。ただ移築したのかどうかは分からないが、校内神社か奉安殿の跡については移動はないものと思われることから、海寮と港口の中間に位置する現在地が南安公學校の跡地であるといよう。

直加弄公學校港口分校(分離教室)
民国9年(1920年)大正9年
(公報未確認)

臺南州になってから港口分校(分離教室・分教場)に関する告示がないため、法令上の処理から見ると、海寮分離教室(分教室)の告示が南安國民小學の前身にあたる。また大正9年間の府報によっても港口の分校、分教室などの告示がないため、この場合は告示に拠らない「分教室」として先に海寮、港口に教室が設けられていたか、はじめは海寮に分教室がなく、海寮からも設置の声が上がり、港口と海寮の中間地の現在地に告示による分離教室が設けられたものと考えられる。その後分校に昇格、公學校への独立昇格となったものと考えられる。

いずれにしても、時期的なことから考えると、港口か海寮のどちらか先か同時か、一方だけかは今後の研究によるが、告示に拠らない分教室が設置されたところが南安國民小學の前身になる。

安定公學校海寮分離教室
民国10年(1921年)大正10年4月24日
臺南州報號外 大正10年4月25日 告示第34號

安定公學校海寮分教場
民国12年(1923年)大正12年4月1日
臺南州報第245號 大正12年6月1日 告示第67號

南安公學校
民国15年(1926年)大正15年
(公報未確認)

南安國民學校 
民国30年(1941年) 昭和16年4月1日
臺南州報第2121號昭和16年4月1日告示第370號


校内にある二宮金次郎の像。そのまま残されていた。

台座は楠木正成と思われる。


校門を入って左手にあった校内神社か奉安殿の跡と思われる。基礎部分の手前の木はかつては燈籠か鳥居の支柱であっと思われる。

港口にある「慈安宮」と活動センターと市場
(2012年5月13日撮影)
分校や分離教室の最初は寺廟などに設置することが多く、活動センターや市場もあることから、このあたりに当初設置されたのではと推測する。


海寮にある「普陀寺」と活動センター
(2012年5月13日撮影)
分校や分離教室の最初は寺廟などに設置することが多く、活動センターもあることから、このあたりに当初設置されたのではと推測する。