公学校の名称
公学校の名称は基本的に創立した土地の名称を付けることが慣例となっている。その根拠となったのが「明治31年内訓35號國語普及公学校令発布ニ付内訓」である。これに基づき地方廳の規則もこれに準じていると思われる。
大正の地方制度改正に伴い、ナンバースクールが登場するが、学校の統廃合移動があるため、煩雑なためか一部を除いて土地名称に戻っている。
大正9年に地方制度の大改正があり、それまでの伝統的な地名は日本的な地名に変更されていった。それは旧漢字使用から当時の日本での使用漢字への変更でもあった。また、伝統的な堡里庄から郡街庄字制度への変更であった。そのことは学区にも影響与えた。
特に変更の多かった漢字
「仔」から「子」、「藔」から「寮」、「份」から「分」、「洲」から「州」(一部海沿いにある地区は「洲」をそのまま使用していることが多い)、「蔴」から「麻」などへの変更である。
「明治31年内訓35號國語普及公学校令発布ニ付内訓」
國語普及公學校令發布ニ付内訓
本島ハ新版圖ニ屬シタル當初國語ノ普及ヲ圖ル端緒トシテ國語傳習所ヲ設置シ以テ急需ヲ充セシ其効果ハ地方人民ヲ感動シ國語傳習所又ハ其分教場ノ設置ヲ企望スルモノ續出スルニ至レリ然レトモ國庫限アルノ財源ヲ以テ限ナキノ需要ヲ充タス能ハサルノミナラス本島ニ於ケル國語敎育ハ性質上實ニ義務敎育ノ一ニ屬スルモノナカ故ニ普通學ノ範囲タル國語敎育ハ之ヲ地方税事業ニ移シ又ハ地方ニ於テ自然學事ヲ施行スル習慣ニ委シ以テ國語普及ノ基礎ヲ鞏個ニスルノ目的ヲ以テ公學校令ヲ發布セラレタルカ故ニ其施行ニ關シ左ニ其要項ヲ示ス
一 國語傳習所又ハ分敎場ノ設立アル地方ハ直ニ之ヲ公學校ニ移シ敎育ノ停廢ナキコトニ注意スヘシ
一 從來分敎場ノ增設ト共ニ敎員ノ需用ニ急ヲ訴フルモ供給ノ機關未タ全備ハサルヲ以テ不得止資格ノ有無ニ拘ハラス雇敎員等ノ名ノ下ニ一時ノ急ニ應セシモ今ヤ國語學校師範部ニ卒業者ヲ出シ又本年十二月ヲ以テ講習員數十名ヲ各地ニ配置セントス故ニ公學校ノ增設ハ敎員ノ需用ニ支障ナキ時期ヲ見テ開設センコトヲ要ス
一 公學校訓導即チ土人敎員ハ將ニ來設立セントスル師範學校卒業生ヲ以テ之ヲ任用スル方針ナリ然レトモ其目的ニ達スルハ今ヨリ數年ノ後ニ待サルヘカラス故ニ當分ノ內ハ雇敎員ヲ以テ補充スルヲ要ス
一 國語學校卒業生竝講習員ハ一定ノ契約ヲ以テ募集シタルモノニシテ各自服務ノ年限アリ然ルニ明治二十九年七月以來講習員ニシテ本島ヲ去リタル者二十餘名ノ多數ニ達ス是疾病其他品行等種々ノ事情ニ依リ不得止結果ニハ相違ナキモ其ノ事實ハ自己便宜ニ出ツルモノナキニシモアラス爾來ハ契約ヲ格守セシメ輕忽ニ非免セサル様一層取締上ニ注意スヘシ
一 公學校ハ其土地ノ名ヲ冠シ何々公學校ト名稱スヘシ
(國語普及公學校令發布ニ付内訓
明治31年8月15日決定 8月16日発達)
(台湾総督府文書 文書番号 000002550120094-000002550120095)
訓令を受けて、臺中縣訓令第136號臺灣公學校設置廢止規則施行細則の第三条にも書かれている。
臺中縣訓令第136號臺灣公學校設置廢止規則施行細則
臺中縣訓令第百三十六號
辨 務 署
明治三十一年八月府合第七十八號臺灣公學校設置廢止規則第四條ニ依リ其ノ施行細則左ノ通相定ム
明治三十一年十月一日 臺中縣知事 木下周一
臺灣公學校設置廢止規則施行細則
第一條 公學校設置廢止規則弟一條ニ依リ公學校設置ノ申請書ヲ進達スル塲合ハ辨務署長ハ其ノ設置区域並二維持方法等ニ關シ詳細ナル意見ヲ副申スヘシ
第二條 公學校設置廢止規則第一條ニ依リ設置認可ノ後仝條第二ノ事項ヲ變更セントスルトキハ辨務署長ニ於テ其ノ都度縣知事ノ許可ヲ受クヘシ
第三條 公學校ハ其土地ノ名ヲ冠シ何々公學校ト名稱スヘシ
第四條 公學校設置ノ許可ヲ受ケタルトキハ辨務署長ハ三ケ月以内ニ開校ノ期日ヲ定メ知事ニ開申スヘシ但シ期限内ニ開校シ能ハサル事情アルトキハ豫メ其ノ事由ヲ具シ許可ヲ受クヘシ
第五條 公準校設置廢止規則第二昧及第三條ニ依リ公學校分離合併又廢止ノ申請書ヲ進達スル塲合ハ辨務署長ハ學務委員ニ諮詢シ公學校資産ノ處分方ヲ定メ副申スヘシ
(臺中縣報第104號 明治31年10月3日)
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