2009年6月7日日曜日

<解説2>公報について

 ここで言う「公報」とは今で言う「官報」である。総督府発行のものは「台湾總督府報」である。明治28年頃から既に発行されている。
 その他に地方廳などで発行された廳報、縣報、州報が地方制度改正毎に出されている。

參考写真(大社國民小學の例)

 公學校の許認可は当初は総督府で行っていたが、地方に一度移管された。しかし総督府の内議を得ることが必要であった。しかし、また総督府に戻った。原住民の通う公学校は一貫して総督府が管轄していた。
 大正9年の地方制度改正に伴い、それまで総督府公學校は地方に完全移管され州立となり公立公学校と称されるようになった。大正9年以降の公学校の許認可は州で行い、州報で告示されるようになった。

 大まかに言うと、
 明治29年から大正元年迄は地方廳縣の公報により許認可告示
 大正2年から大正9年までは総督府報により許認可告示
 大正9年以降は地方州廳にて許認可告示
 
また、総督府の内議を必要とする時期もあったことから、告示されていないこともあり、史料上の確定は総督府文書により確認する必要がある。

 國語傳習所の分校認可の告示は臺北縣報、臺中縣報、臺南縣報でされていた。しかし公學校になると、臺北縣から臺北廳と変わっていく中でも明治42年頃までは各縣報廳報で告示があった。
 
 明治34年11月からは内議を経て認可された公学校は各廳などの公報によって告示されるが、20廳になって各廳に任せると乱立する恐れさえあったのではないかと思われる。そのため中央で統制するため内議の必要があったものと思われる。


「公學校設置認可ニ關スル件」(12)(民政長官通達明治34年11月)
公學校ノ設置廢止ハ廳長に於テ認可スル義ニ候處右ハ地方税一般ノ經濟ニ關係候ニ付其ノ設置ヲ認可セントスルトキハ豫め本府ニ内議ノ上處理可相成依命此段及通達候也


 明治42年の改正後は縣報には認可の告示よりも、開校と通學區域の変更の告示が出るようになる。これは認可は別にあり、そのための変動を廳報で告示するものに変わったものと思われる。しかしこの間、総督府の府報で認可の告示は見あたらない。

 大正2年から学校認可の告示が「府報」に掲載されるようになり、この現象は1920年(大正9年)の大正9年の地方制度改正まで続く。その後、公学校は州が許認可するようになり、州報にその告示が出るようになり、終戦までつづく。

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