現在地:臺南縣關廟郷亀洞(2010年2月14日撮影)
關廟公學校龜洞分教場
民国12年(1923年)大正12年4月1日
臺南州報 第245號 大正12年6月1日 告示第67號
關廟國民學校龜洞分教場
民国30年(1941年) 昭和16年4月1日
臺南州報第2121號昭和16年4月1日告示第370號
龜洞國民學校
民国31年(1942年) 昭和17年4月1日
臺南州報第2403號 昭和17年4月3日告示第327號
<解説>
民国10年(1921年)大正10年4月24日 臺南州報號外 大正10年4月25日 告示第34號は臺南州の公學校分離教室(分教室)も告示した広報である。しかしながらこの告示には龜洞分離教室はないが、關廟公學校關廟分離教室が告示されている。この教室がどこなのか、まだ調査中である。
關廟には
「埤子頭」(現在の「保東國小」、後に廃止された。しかしながら昭和19年版の職員録には記載事項がある。國民學校分教場として復活しているようである-広報未確認)
「深坑」(現在の「深坑國小」、大正10年に分離教室として告示されたが、その後のことは不明である。国民学校になった形跡がない。)
「關廟国民学校東分教場」(現在の「五甲國小」だが広報未確認。しかしながら昭和19年版の職員録には記載事項がある。)
以上のことから、考察するに、「關廟分離教室」が後の「龜洞分教場」になった可能性がないわけではない。学校の名称に土地の名称を用いる原則からすると、關廟庄に含まれていることから、拡大解釈して、龜洞を關廟分離教室としたことは十分考えられる。ちなみに、大正年間に開校した關廟庄の学校として残り、学級数も多かったのは龜洞(5学級)のみである。
このことからも、開校当時の地理的条件や關廟庄の教育拠点をどこに置くかの条件を考えると、關廟中心のほかに山を超えても尚学校の必要性があったものとして關廟直轄の学校として龜洞においたことは十分考えられる。龜洞国民学校は昭和19年時点で5学級記録されている。一クラスの人数が複式であっても、30から50前後で勘定すると150人から250人の生徒がいたことが予想される。
2010年2月15日月曜日
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